外向的ロマンティズム

 最近ЧайковскийのБремена годаの9月:охотаを弾き始めた。和音進行が多いのがつらいけどそれさへ克服できれば難しいものではなさそう。しかしЧайковскийを弾いてて思ふんやけど、何かやけに気持ちがよくなる。何故やらうか...と考へてみたら、言葉ではうまく言へへんけど何となくわかった気がする。といふのは、影の使ひ方にある。どの作曲家でも、光の部分と影の部分をどう使ふかが作曲の大きなポワンとなるが、他の多くの作曲家が(僕が2大ピアノ曲作曲家と考へるSzopenとDvořákはこの典型例)影を描くのに内向的ロマンティズムを用ゐるのに対し、Чайковскийは外向的ロマンティズムをもって描いてゐるのである。ピアノ協奏曲に目をうつしても、この種のロマンティズムは、第1番の第3楽章とかにも出てるし、第2番はそんなに聞き込んでなかったけど、よく考へると結構出てることが分かる。この外向的ロマンティズムと同種のものがどこから来るか、と考へると他の作曲家にはなかなか見当たらん。彼の後継者にあたるРахманиновからも全く見られず。Чайковскийの音楽はロシアと西欧の折衷だとよく言はれ、そのやうな性格もないとは言へんが、僕は彼の音楽はどちらでもないかなり独特なところに来てゐると思ふ。結局この外向的ロマンティズムはЧайковский独特の音色ではないか、と結論。あと以前から弾き続けてたSzopenのnokturn第14番、右手が主で左手が従になれるように練習中。左手が難しい故に左手が主になってしまひロマンティズムが大幅に失はれてゐるといふことに最近気がついた。